ちぐ、はぐ

果てしない戯言

シンメ及びセンター・エース

前回の記事でジャニオタが大好きなコンビのことをBLと言われたことについて、絶対語弊だ!解決せねば!とずっと悶々としており、暇さえあればそれらについて検討していた。そしてなんと、暫定的でありながら糸口のようなものをみつけたのです。

 

まず、なぜジャニオタがコンビを愛してやまないかと言えば、シンメが大好きだからである。こんな単純な構造にも気が付かなかった前回のわたしよ。シンメは曲中の立ち位置や振り付けが対称であることを意味している。恐らく誰の中にも、絶対的なシンメがいるのではないだろうか。わたしの前に最初に現れたシンメは仁亀だった…。そういう時代だった。それはともかくとして、シンメというものは必ず楽曲という物語(ナラティブ)を背負っている。その物語が否応なしにもシンメの設定を成していて、シンメをよりシンメたらしめている。宿命を与えているとしても過言ではない。この物語が与えられたことによって彼らはふたつでひとつとなり、時には悪と戦い、時には恋敵にもなる。シンメというものは、対比やコントラストを楽しむものだと思っている。「きっとこのふたりはジャニーズに入らなければこうして絡むこともなかったんだぜ…」「このひとたち外見とか性格が正反対なのにシンメ組んでるアツい…」こうした楽曲を離れて物語が付随しなくなっても、シンメの枠組みだけが存在する状態にコンビがあるだろう。主にバラエティー番組やラジオ番組、雑誌の誌面そしてプライベートにまでコンビが浸透していることに対して、どこかである楽曲を思い浮かべながら喜んでいるのである。

前回の記事では、このコンビ芸はジャニオタ特有の文化なのではないかというのがわたしの仮説だった。同じアイドルであっても、女性アイドルにこのシンメという文化は希薄なのではないだろうか。全くもって女性アイドルに明るくないわたしが独断と偏見のかたまりで語るので暖かく見守ってください。石は投げないで…!あくまで世間のイメージということで。どちらかと言うと、女性アイドルはセンターの文化だと思う。ジャニーズにももちろんセンターという制度はあるが、あくまでジャニーズの運営サイドが勝手に決めている訳で、タイアップ曲ともなると誰のタイアップかでセンターの位置が決まるしそんなに重要視していないように感じる。ジャニーズのグループの大半は奇数人数だから隊列の時にセンターがいて映えるのは美しいし、「あ、この人が今このグループ導いてるのか強そう」とはなるけれど、重要なのはあくまでシンメ。女性アイドルが(特に秋元氏の界隈で)センター至上主義なのは、センターポジションこそがアイドルの証だからではないのだろうか。「アイドルになりたい」と言ってこつこつと活動を続ける少女たちを見守り育てて、やっと総選挙やら何やらでセンターになり得たときにアイドルに「なった」と言っているように思える。(最高に偏見)ここではセンターは流動的なもので次々に移り変わっていくものだろう。それは、女性アイドルには卒業がいつかどこかに待っていて、不可避のその日が来るまでの有限性によるもので、センターというポジションに付加価値があるように思える。普通の少女がアイドルになること自体が最高の物語であるのに対して、ジャニーズはアイドルであることがほぼほぼ前提なのではないだろうか。寧ろアイドルとして様々な困難や苦難に立ち向かう姿を物語にしているように思う。この時に登場する概念がエースである。エースは不変でいつでもどこでもそこに存在している。センターはあくまで立ち位置の話であるが、エースはグループそのもののベクトルともなる存在で、新規ファンの開拓に一役買っている。グループの数だけエースは存在していて、どこかに面白いエース論があったのでそこら辺はそちらを参照してください。以上がわたくしのシンメ及びセンター・エースのお話です。続いてわたしの好きなコンビ・シンメの話をつらつらと書き殴るのでどうしようもなく暇な方だけお付き合いください。

 

 

●錦戸・大倉(通称:torn、きどくら、くらりょ)

このコンビのことをわたしはとーんちゃんと呼んでいる。そんなに深い意味はない。とーんは言わずと知れたふたりのユニット曲「torn」に由来しており、これはふたりのイニシャルにもなっている。このユニットを歌っていた当時は結構オフィシャルで仲良しだったのに、最近は倦怠期のカップルみたいになっている。どっちからともなく素気なくなっていっているが、やりとりの端々から昔の仲の良さが窺える。直近でいうと、関ジャニ∞クロニクルでコーナー化もされている「LOVEスーパーマン」の元の話を引っ張り出したのは、そう、大倉さんである。ちょっと冷めているコンビなのにこんなにも私が熱く支持しているのはとーんちゃんが「あの頃の俺たち」を物語っているからである。発端は十祭のユニット「青春アミーゴ」による。あの曲が素晴らしいのは「俺たちはいつでもふたりでひとつだった」というニコイチソング(しかも過去形)だからである。過去形でもその事実があったことだけで最高。あのふたりは関ジャニ∞の中でも俳優枠で美形だから、あのふたりが並んだらめっちゃ強そうだし夜の街に繰り出せば(昼間でもだけど)爆モテだからね。これに拍車をかけたのが今回のリサイタルで、よくぞこの組み合わせを保ったままユニットをやってくれたな!という感じであったが選曲がとーん厨の心を鷲掴みにするものであった。「ファンタスティポ」はAメロに「あの頃俺たちはいつも何かを追い続けていた」とある。今はちょっとアレだけど昔は地元じゃ負け知らずだったふたりをまたしても想起させる歌詞よ。「青春アミーゴ」も「ファンタスティポ」もどちらも違うグループの人物によるユニット曲であり、その特性としてあの頃の俺たちを歌いがちなのかもしれないが、それにしても素晴らしい。

 

●手越・加藤(通称:テゴシゲ)

お気づきの方もいるだろうが、前項目もそうであったがわたしはただの末っ子厨である。グループの末っ子ふたりが愛おしくて仕方ないおばさんである。とは言え、とーんちゃんはグループの年下からふたりであったが歳がひとつ違いである。錦戸さんには同い年の最強コンビ安田さんが存在している…。ここで手越さん加藤さんは同い年である。この同い年コンビがまぁ正反対である。同い年で一人っ子なのにこうも違うものなのかと。そもそもこのふたりが同い年の時点で驚く人多数であるが。もしもテゴシゲが同じクラスだったら絶対に仲よくはならないよね。加藤さんは優等生だけどスポーツは得意じゃなくて、手越さんは不良で勉強はそんなできなくて(本当はYDKだと思ってるよ)スポーツがひたすらできるから、いつどこで交わるのって話よね。なのに、だがしかしジャニーズに入ったことによって交わっちゃったよね!!!運命の歯車狂ったわ。でも手越さんという人は加藤さんに絶対的な信頼を置いているし、NEWSにはそもそもテゴマスとコヤシゲというシンメの権化が存在しているのにその枠組みを超えて、手越さんという人は加藤さんを「NEWSで一番優しい」って言ってるし、どう考えてもコヤシゲの方が夫婦なのに、手越さんという人は加藤さんと自分を熟年夫婦のコンビネーションだと思ってるから愛おしすぎる。テゴシゲには公式のユニット曲は存在しないから宿命たるのもは背負ってないけれど、既存の絶対的枠組みを超越したという意味でわたくしの大好きなコンビだ。ここ最近は曲の立ち位置がシンメの場合も増えてきているし、今回のツアー先でテゴシゲと共通の友人でカラオケに行ってジャニオタホイホイの「愛のかたまり」を歌ったというのだからユニット曲を期待してやまない。

 

●丸山・加藤(通称:マルシゲ)

上記ふたつはグループ内によるコンビやシンメだったが、このふたりはグループを越境している。この時点でもう大好き。きっかけは丸山さんのラジオに加藤さんがゲストで来た際に趣味の話で意気投合したことらしい。それから今日まで次々とディープなエピソードを投下しつづけ、我々を翻弄・悶絶させてきた。そのエピソードを列挙すると夜が明けるので気になる方はググってください。そして新興宗教マルシゲに改宗しましょう。ともあれ、常に超越した存在とわたしがツイートを固定して声を大にして言いたいくらいマルシゲはこれまでのジャニーズの交友を超越していると信じてやまない。そんなマルシゲにも物語を背負わせたい。誠に勝手で僭越ながら、どうしてもいつかマルシゲのオンステージでやってほしい曲がある。聞いてくれ。「愛されるよりも愛したい」だ!!!!!これはどう考えてもマルシゲの永遠のテーマ曲。いつかのジャニカンでNEWSがカバーしていた時の加藤さんがひたすらかっこよかったのが鮮明に記憶されていた。これを同じような衣装でジャニオタが大好きなKinKi Kidsの名曲に乗せてお送りするマルシゲを想像しただけで動悸息切れだった。これを何かの手違いでみてしまった関係者各位の皆様には是非こういった需要があることを上層部に伝えていただきたいです。