ちぐ、はぐ

果てしない戯言

ジャニーズカウントダウン2015-2016「夢のツーショット」

もうジャニーズカウントダウンの話題なんて本当に年の瀬になってしまった。2015年を振り返るあれこれはまた別件として、カウコンの夢のツーショットの回答が迫ってきている。決められない!そんな、夢のツーショットなんてひとつに絞れない!ということで今回は迫りくる回答期限を前にここで脳内の状況を整理していく次第です。ではでは。

 

エントリーNo.1「まるしげ」

不動の王者。前回の記事でまるしげに「愛されるよりも愛したい」を歌わせたいと豪語していたので絶好のチャンス。全国のみなさまにまるしげを布教したい。まるしげにKinKi Kidsを歌わせることのメリットは、丸山さんがハモれる。彼は何度か安田さんとKinKi Kidsを歌っており、場数は踏んでいる。問題ない。ただ、彼らはこの企画なんてなくてもどこかで肩を組んで歌うことが大いにある。それが電波にのって全国に放送されるかは別として。そうなってくるとまるしげに清き一票を投じなくてもよいのでは?という疑念がわいてくる。それに匹敵する強豪があらわれるのである。

 

エントリーNo.2「くらきた」

これがどこまで浸透している名称なのかもわからないけれど、説明すると関ジャニ∞大倉さんとKis-My-Ft2の北山さんのこと。このコンビには派閥という大きすぎる壁が立ちふさがっているため、未だかつてメディアでツーショットを見た者はいない…。2007年(かは定かではないが)の滝沢演舞城での共演がきっかけとなり仲良くなったという。大倉さん曰く東京で初めてできた友達。例によって派閥で交流が露出されることは少ないけれど、今でも雑誌やJwebで遊んだ話をしている。フジテレビが派閥越えを本当に叶えてくれるのならばここにわたしの一票は捧げる。ここで浮上してくるのが、何をふたりに歌わせるのか問題である。完全にネタ狙いならばキスマイの「SHE HER HER」をするしかないが、ここは千載一遇のチャンスなのでふたりを繋いでくれた滝沢様に感謝するべくタッキー&翼の「夢物語」にしましょう。当時のあの衣装が似合いそうだ。

 

エントリーNo.3

なぜわたしには自担がふたりいるんだ!!!ここまできてふと思った。ならば自担を組み合わせればよいのだ。単純な話である。需要はほとんどわたししか見込めない。だがしかし。前回の記事で述べたように、コンビやシンメが歌を歌うことによって物語が生じる。コンビに物語はつきものである。自担ふたりにはほとんど接点がない!よって物語がない!ならば背負わせてしまえばいいのだが、そんな簡単なものではない。もっと単純明快な何かがなければ殊にカウコンで組み合わせる意味がない。そこで思い出したのは昨年の日テレ系で放送された夏の音楽特番 Music Day である。ジャニーズシャッフルメドレーで自担が同じ曲を担当することになったときの喜びといったらなかった。忘れもしない「Love so sweet」選抜。なぜかはよくわからないけれど、直感的に我ら自担はコンビよりも複数の括りに当てはめる方がよいのではないかと思った。それは当然ながらコンビにするまでの物語が存在しないに尽きるのではあるが。フジテレビさんの気が利いていればそういったシャッフルユニットをやってくれるだろうし、わたしはその時をひたすら待つしかないのである。

 

全く余談であるが、コンビという枠組みを超えてトリオという形態をみたいという願望も出てきてしまった。ズバリ、まるしげジョイント大野さんで「仮面舞踏会」!!センターは大野さん。そしてそれを支えるシンメまるしげ。たまんねぇな!あと、個人的に最近気になっているHey!Say!JUMPと自担グループの癒着を促進させたかったので手札にHey!Say!JUMPがないのは口惜しかった。

 

かくしてカウコンはジャニオタに数多の夢と肥大する欲望を与えるのであった。

シンメ及びセンター・エース

前回の記事でジャニオタが大好きなコンビのことをBLと言われたことについて、絶対語弊だ!解決せねば!とずっと悶々としており、暇さえあればそれらについて検討していた。そしてなんと、暫定的でありながら糸口のようなものをみつけたのです。

 

まず、なぜジャニオタがコンビを愛してやまないかと言えば、シンメが大好きだからである。こんな単純な構造にも気が付かなかった前回のわたしよ。シンメは曲中の立ち位置や振り付けが対称であることを意味している。恐らく誰の中にも、絶対的なシンメがいるのではないだろうか。わたしの前に最初に現れたシンメは仁亀だった…。そういう時代だった。それはともかくとして、シンメというものは必ず楽曲という物語(ナラティブ)を背負っている。その物語が否応なしにもシンメの設定を成していて、シンメをよりシンメたらしめている。宿命を与えているとしても過言ではない。この物語が与えられたことによって彼らはふたつでひとつとなり、時には悪と戦い、時には恋敵にもなる。シンメというものは、対比やコントラストを楽しむものだと思っている。「きっとこのふたりはジャニーズに入らなければこうして絡むこともなかったんだぜ…」「このひとたち外見とか性格が正反対なのにシンメ組んでるアツい…」こうした楽曲を離れて物語が付随しなくなっても、シンメの枠組みだけが存在する状態にコンビがあるだろう。主にバラエティー番組やラジオ番組、雑誌の誌面そしてプライベートにまでコンビが浸透していることに対して、どこかである楽曲を思い浮かべながら喜んでいるのである。

前回の記事では、このコンビ芸はジャニオタ特有の文化なのではないかというのがわたしの仮説だった。同じアイドルであっても、女性アイドルにこのシンメという文化は希薄なのではないだろうか。全くもって女性アイドルに明るくないわたしが独断と偏見のかたまりで語るので暖かく見守ってください。石は投げないで…!あくまで世間のイメージということで。どちらかと言うと、女性アイドルはセンターの文化だと思う。ジャニーズにももちろんセンターという制度はあるが、あくまでジャニーズの運営サイドが勝手に決めている訳で、タイアップ曲ともなると誰のタイアップかでセンターの位置が決まるしそんなに重要視していないように感じる。ジャニーズのグループの大半は奇数人数だから隊列の時にセンターがいて映えるのは美しいし、「あ、この人が今このグループ導いてるのか強そう」とはなるけれど、重要なのはあくまでシンメ。女性アイドルが(特に秋元氏の界隈で)センター至上主義なのは、センターポジションこそがアイドルの証だからではないのだろうか。「アイドルになりたい」と言ってこつこつと活動を続ける少女たちを見守り育てて、やっと総選挙やら何やらでセンターになり得たときにアイドルに「なった」と言っているように思える。(最高に偏見)ここではセンターは流動的なもので次々に移り変わっていくものだろう。それは、女性アイドルには卒業がいつかどこかに待っていて、不可避のその日が来るまでの有限性によるもので、センターというポジションに付加価値があるように思える。普通の少女がアイドルになること自体が最高の物語であるのに対して、ジャニーズはアイドルであることがほぼほぼ前提なのではないだろうか。寧ろアイドルとして様々な困難や苦難に立ち向かう姿を物語にしているように思う。この時に登場する概念がエースである。エースは不変でいつでもどこでもそこに存在している。センターはあくまで立ち位置の話であるが、エースはグループそのもののベクトルともなる存在で、新規ファンの開拓に一役買っている。グループの数だけエースは存在していて、どこかに面白いエース論があったのでそこら辺はそちらを参照してください。以上がわたくしのシンメ及びセンター・エースのお話です。続いてわたしの好きなコンビ・シンメの話をつらつらと書き殴るのでどうしようもなく暇な方だけお付き合いください。

 

 

●錦戸・大倉(通称:torn、きどくら、くらりょ)

このコンビのことをわたしはとーんちゃんと呼んでいる。そんなに深い意味はない。とーんは言わずと知れたふたりのユニット曲「torn」に由来しており、これはふたりのイニシャルにもなっている。このユニットを歌っていた当時は結構オフィシャルで仲良しだったのに、最近は倦怠期のカップルみたいになっている。どっちからともなく素気なくなっていっているが、やりとりの端々から昔の仲の良さが窺える。直近でいうと、関ジャニ∞クロニクルでコーナー化もされている「LOVEスーパーマン」の元の話を引っ張り出したのは、そう、大倉さんである。ちょっと冷めているコンビなのにこんなにも私が熱く支持しているのはとーんちゃんが「あの頃の俺たち」を物語っているからである。発端は十祭のユニット「青春アミーゴ」による。あの曲が素晴らしいのは「俺たちはいつでもふたりでひとつだった」というニコイチソング(しかも過去形)だからである。過去形でもその事実があったことだけで最高。あのふたりは関ジャニ∞の中でも俳優枠で美形だから、あのふたりが並んだらめっちゃ強そうだし夜の街に繰り出せば(昼間でもだけど)爆モテだからね。これに拍車をかけたのが今回のリサイタルで、よくぞこの組み合わせを保ったままユニットをやってくれたな!という感じであったが選曲がとーん厨の心を鷲掴みにするものであった。「ファンタスティポ」はAメロに「あの頃俺たちはいつも何かを追い続けていた」とある。今はちょっとアレだけど昔は地元じゃ負け知らずだったふたりをまたしても想起させる歌詞よ。「青春アミーゴ」も「ファンタスティポ」もどちらも違うグループの人物によるユニット曲であり、その特性としてあの頃の俺たちを歌いがちなのかもしれないが、それにしても素晴らしい。

 

●手越・加藤(通称:テゴシゲ)

お気づきの方もいるだろうが、前項目もそうであったがわたしはただの末っ子厨である。グループの末っ子ふたりが愛おしくて仕方ないおばさんである。とは言え、とーんちゃんはグループの年下からふたりであったが歳がひとつ違いである。錦戸さんには同い年の最強コンビ安田さんが存在している…。ここで手越さん加藤さんは同い年である。この同い年コンビがまぁ正反対である。同い年で一人っ子なのにこうも違うものなのかと。そもそもこのふたりが同い年の時点で驚く人多数であるが。もしもテゴシゲが同じクラスだったら絶対に仲よくはならないよね。加藤さんは優等生だけどスポーツは得意じゃなくて、手越さんは不良で勉強はそんなできなくて(本当はYDKだと思ってるよ)スポーツがひたすらできるから、いつどこで交わるのって話よね。なのに、だがしかしジャニーズに入ったことによって交わっちゃったよね!!!運命の歯車狂ったわ。でも手越さんという人は加藤さんに絶対的な信頼を置いているし、NEWSにはそもそもテゴマスとコヤシゲというシンメの権化が存在しているのにその枠組みを超えて、手越さんという人は加藤さんを「NEWSで一番優しい」って言ってるし、どう考えてもコヤシゲの方が夫婦なのに、手越さんという人は加藤さんと自分を熟年夫婦のコンビネーションだと思ってるから愛おしすぎる。テゴシゲには公式のユニット曲は存在しないから宿命たるのもは背負ってないけれど、既存の絶対的枠組みを超越したという意味でわたくしの大好きなコンビだ。ここ最近は曲の立ち位置がシンメの場合も増えてきているし、今回のツアー先でテゴシゲと共通の友人でカラオケに行ってジャニオタホイホイの「愛のかたまり」を歌ったというのだからユニット曲を期待してやまない。

 

●丸山・加藤(通称:マルシゲ)

上記ふたつはグループ内によるコンビやシンメだったが、このふたりはグループを越境している。この時点でもう大好き。きっかけは丸山さんのラジオに加藤さんがゲストで来た際に趣味の話で意気投合したことらしい。それから今日まで次々とディープなエピソードを投下しつづけ、我々を翻弄・悶絶させてきた。そのエピソードを列挙すると夜が明けるので気になる方はググってください。そして新興宗教マルシゲに改宗しましょう。ともあれ、常に超越した存在とわたしがツイートを固定して声を大にして言いたいくらいマルシゲはこれまでのジャニーズの交友を超越していると信じてやまない。そんなマルシゲにも物語を背負わせたい。誠に勝手で僭越ながら、どうしてもいつかマルシゲのオンステージでやってほしい曲がある。聞いてくれ。「愛されるよりも愛したい」だ!!!!!これはどう考えてもマルシゲの永遠のテーマ曲。いつかのジャニカンでNEWSがカバーしていた時の加藤さんがひたすらかっこよかったのが鮮明に記憶されていた。これを同じような衣装でジャニオタが大好きなKinKi Kidsの名曲に乗せてお送りするマルシゲを想像しただけで動悸息切れだった。これを何かの手違いでみてしまった関係者各位の皆様には是非こういった需要があることを上層部に伝えていただきたいです。

ジャニーズにおける「かわいい」とは ‐ あとがき

 

84g.hatenablog.com

 

 

という訳で、発表してきた。こちらでは大々的に書いたけど、発表ではほんの補足で番外編と題して。先生からのお言葉。

 
「いや〜〜わかりすぎるんだよ!俺が夏目ちゃん(夏目三久)がかわいい*1もそれで説明できちゃうから!」
 
ですよね。一般論ですよね。オタクの小さな脳みそで考えることなんて所詮一般論なんですよ。ファン心理における「かわいい」の一般論だから、そこに何かジャニーズ特有の違いみたいなものを見つけられると論文になるんだよね、とアドバイスをいただいた。例えば、ファンとアイドルの距離感であるとか。そもそも、ジャニーズ自体に見出すかわいさと、ジャニオタサイドにおけるかわいさとは区別するべきだとも仰っていた。ごもっともである。その辺りも一応わたしの中では区別していたつもりだ。そして、議論はジャニーズの何がかわいいのかへ。わたしは当たり障りなく、ギャップだとか楽しそうな様子だとかを言う中、我がゼミもうひとりのジャニオタ(関ジャニ∞と嵐の掛け持ち)に聞くと「メンバー同士が仲良くしてる様子とか…?」言ってしまった!それは敢えて避けていたのに!つかさず先生は「それってBLじゃね???」と突っ込んでくる。勿論彼女はそういう類の仲の良さを言ってない。まるくらとか夫婦のことだよね、というわたしの一方的な以心伝心で心が痛む一方。一般的にはそれはBLなのだ。
 
困った。確かにわたし自身も「かわいい」を語る上で絶対まるしげのあれは外せない。薄々、わたしがまるしげをかわいいと思うあれは世間からすればベーコンレタス(つまりBL)なのだとは思っていたが、ここまで面と向かって言われるとは…!「かわいい」の総括として書いているはずなのに、ジャニーズにおける組み合わせのそれは何なのかという議論に転じてきていて非常に厄介でややこしいことになってきた。
どうもBLと言うと、2次元的なにおいがする。それなりにジャニーズ界隈にも存在しているのだろうが、わたし自身身近にそういった趣味の友人がいないこともありほぼ無縁のものだと思っている。そもそも、BLとは何なのかという実体もよくわからないし、わたしの中の概念では二人にある役割が振られていることくらいしか知らない。恐らく先生の言うそれは、かなり立ち入った話ではなく、男同士における友情とかソフトな意味くらいで用いたのであろう。先日、映画「バクマン。」を観たという先生はもう、バクマン。のことしか考えられないらしい。その熱い友情や勝利の爽快感の過程がややベーコンレタスなんじゃないかと言う話をゼミ冒頭にしていたものだからこうなった。
正直、ジャニーズにおける組み合わせがベーコンレタスであろうとなかろうと、それ自体が文化なんじゃないかというのが現時点でのわたしの考えである。どのグループでもJr.でも、組み合わせ文化は存在するしそれを愛でるのがジャニオタの仕事みたいなところはある。ただ、これが女性アイドルにも存在するか否かは、わたしが詳しくないため未知である。もしもこれが、ジャニオタ特有の文化であるとしたら、ちょっと卒論書いてもいいかなと思える。
 
本題のジャニーズにおける「かわいい」であるが、そんなものをA4の紙の僅かなスペースに言語化できていたら10年近くもオタクやってない。とんだ本末転倒であるが、今回の結論はそれである。こんな自由なゼミに入りながら、「ジャニーズで卒論書かせて下さい!」と頼めば二つ返事で書ける環境にいるのに、別のテーマで卒論を書きたい理由もそれである。自分の趣味を研究対象にするのは楽しいと思うし、とことんまで追求できるだろうし、やり甲斐もひとしおだろうが、一方で研究するということは自分の主観を捨てざるを得ないこともある。自分の思想とか倫理観とは違う結論に導かなければならなかったら。その苦しさを考えると、こうして永遠に主観でだらだらと文章にしている方が圧倒的に楽だ。結論がない、得体の知れない何かに泳がされている状態も含めてジャニオタ生活を楽しみたいのだ。
 
ここまででちょっと「かわいい」について考えすぎて疲れてきたので、噂のHanakoでかわいい伊野尾さんを摂取するべく本屋巡りをすることにする。

*1:先生は夏目三久が好きだ。既婚者。40代男性。

ジャニーズにおける「かわいい」とは

はじめまして。こんにちは、こんばんは。SNSは基本的に勢いで始めるタイプ。ツイッターしか長続きしておりません。いきなり初回から壮大なテーマでお送りします。

そもそもなぜこのテーマを書くに至ったのか。身分も含めて序論から始めます。勢いでブログを始めた手前、様々な機能の使い方がわからないため、文字を入力するという機能しか使いこなせません。読みづらさはご勘弁を。

 

発端となったのはこの本。

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大学のゼミで読むことになりまして。現在大学3年、超超文系、メディアゼミに所属しております。本からもわかるように、社会学系でマスコミや広告を研究するゼミですが結構なんでもアリです。映画「バケモノの子」について小一時間討論するくらいには自由です。ジャニオタは包み隠さず公開していくスタンスなので皆さん周知です。おかげでゼミではジャニーズ評論家のポジション。ちなみに、大倉さんと加藤さんを掛け持ちしてます。

本の内容としては、現代社会には「かわいい」という感性があふれていて、それがあらゆるものにあてはめられている、と。中でも著者は「スマート感・小ぶり感・その上でのキャラ感」を携えた軽みのある「カワイイ」に着目しています。平仮名で表記される「かわいい」は一般的な感覚を指していて、その定義・概念を「未成熟なものに親和的な感性」「見る側からしたら飼いならすことができる、関わることができる存在」としています。ここで欠かさずジャニーズ評論家のわたくしに「ジャニーズってかわいいの?」という質問が先生から降りかかってくるだろうと思い考え始めたという次第です。

そもそも。わたしが思うジャニーズが「かわいい」と、上記の定義や概念は少しズレているのではないかと思うのです。そして、大前提として、ジャニーズは、かわいい、です!

では本題に。ジャニーズにおける「かわいい」とは何なのか。「かわいい」はジャニオタがジャニーズを形容する時に四六時中用いる言葉である。言わば最大公約数のようなものだ。あらゆる概念を含んでいるので大変便利な言葉である。顔や言動が「かわいい」のは筋が通っているし、それが大半であろう。時には飼いならしたいと思うこともあるし、程度に個人差はあれど関わりたいとも思う。ジャニーズが未成熟なのか否かを議論し始めたら埒が明かないため、ここでは単純に述べるが、ここでの未成熟さは幼さのニュアンスを含んでいる。己のバイアスが強すぎてもう自担が5歳児にしか見えないという場合もままある。また、ジャニオタサイドと当人たちのアイドル像に齟齬が生じる場合も少なからずある。当人は常に完璧なアイドル像を貫きたいのにも関わらず、ジャニオタは儚さや脆さ、危うさ、脆弱さなどの未完なものを勝手に求めたり見出したりしている。ジャニオタとはそういう生き物である。よって未成熟さは、その濃度にかなり違いが生じる感覚ではないかと思う。ただ、「かわいい」という言葉には「かわいそう」という意味もある。ジャニーズがバラエティ番組の荒波に飲み込まれる様など、その不憫さというのは往々にして「かわいい」に転ずる。弱さや未熟さはこの側面に当てはまるだろう。

ジャニーズを形容する時に用いる言葉に「かわいい」以外に「かっこいい」がある。こちらの方が健常な表現だろう。そもそも、「かわいい」はジャニオタが言っているだけであって、本来一般的な判断や印象は圧倒的に「かっこいい」であろう。この「かっこいい」と「かわいい」の境目はどこにあるのか。結論から言うとジャニオタが「かわいい」と言うとき、その「かわいい」には「許し」を含んでいる。「かわいい」で全てが許される。「かわいい」はジャニオタの沼へズブズブ落ちていく呪文である。例えば、生放送の歌番組で振付を間違える、音を外すなどの行為は、一般的には「かっこわるい」に部類される。隙がない、完璧、理想的といったニュアンスをもつ「かっこいい」はこの瞬間に崩れる。しかし、ジャニオタからすればこんな面も「かわいい」。許せてしまう。

かくして、ジャニオタの発する「かわいい」には一般的な定義・概念とはややズレた「許し」を含む。モノを形容する時の「かわいい」は、そのモノは自身の「かわいい」をコントロールすることはできないが、ジャニーズは人物である。そう。この「かわいい」には、自分が「かわいい」と自覚(もしくは無自覚)だ、という点もある。ここからは、もう自担がかわいくて仕方ないという盲目オタクによるフィルターでしかない気もするのだが、わたし自身、「あ、いまこの人、自分のことかわいいと思ってる!」という瞬間がある。例えば、加藤さん。ここ最近一人称が「シゲ」になる。コンサートのMCやラジオで「シゲは?ねぇ、シゲは??」と構って欲しい様子。スーパーかわいい。本人はこれをボケていると言っているが、完璧にかわいいと思ってるオタクの市場わかってる。もしも、無自覚の行動がかわいいと「あざとい」と言って喚いて片付ける。一旦「かわいい」と思ったらもう止まらない。シゲアキさんの無自覚かわいいエピソードは枚挙に暇がないので自重する。

 

ゼミでの発表を前に自分の中の考えを整理するために書いたつもりだったが、かえって散らかってしまったように思う。ジャニオタによるジャニーズのかわいいところなんてただの恥部晒しなのだが、ここまで考えを練ってしまったからには後戻りはできない。そして、みんなや教授の反応が少しだけ楽しみでもある。